自分が発信する文章。書いたのはいいけど、読者にどのように見えているのか気になってしまいます。

 読者に信頼してもらうために、論理的にしっかりした文章を書き上げ、自信満々にアップしてみる。でも、一向に読者が増える気配がない……

「堅苦しくて読む気がしないんだな。もっとくだけた雰囲気を出そう」 

 たしかにSNS上では「論文」のような文章だと、読者はすぐに離脱しますよね。だから、仲間と話しているように文章を書いてみる。

 そうすると「正しい文章の書き方、知らないんですか?」
 そんなコメントが……

「どうすればいいんだろう??」
 そう、この加減がわからなくて苦労してしまうんです。

 子どもの頃の作文と違って、SNSやブログの文章には「正解」がありません。だからこそむずかしい。

 デジタルネイティブな人たちと違い、50代は「紙ベースが基本」で育ってきました。だから発信しても、若い世代に比べて「不自然な表現」になってしまいがちなんです。

 今回の記事は、どうやったらくだけ過ぎず、堅苦しくない「ちょうどいい文章」が書けるのか。これをテーマにお話していきます。

話し言葉、書き言葉、発信言葉

 ら抜き言葉、い抜き言葉、くだけた表現、間違った文法表現。
 これらは国語的にはNG。でもSNSやブログの発信では全然ありですよね(この表現も、国語的にはNGと教わってきましたが……)。

 そう、SNSの登場によって文章に対しての考え方は大きく変化してきました。どんな風に変化してきたのか、その変遷を考えてみましょう。

昭和(平成初期も含む?)の文章事情

「世の中には間違った言葉が溢れている。大変嘆かわしい。まったく、近頃の若いものは……」
 私が「近頃の若いもの」と言われた時代(30年前くらい?)には、そんなことを言い出す「オトナたち」がたくさんいました。

 そんな「オトナたち」が書いていた文章といえば、
・社内文書
・拝啓ではじまり、敬具で終わる「お手紙」(もちろん手書き)
・町内行事、社内行事の連絡文書
  などなど。

「親しき仲にも礼儀あり」といいますが、親しくなければ、なおさら礼儀のカタマリのような文章を書かないといけない。

 筆不精になっちゃいますよね。だって、文章を書いていても「カタチ」ばっかり気になって、全然楽しくないんですから(私の場合、字がヘタだったのも大きな原因ですが)。

手紙+電話⇒メール⇒SNS、LINE

 考えてみたら私と同世代(=50代)は通信手段の「超高速な進化」をすべてリアルな「ユーザー」として経験しているんです

 通信機器としては、
固定電話(黒電話)⇒コードレスフォン⇒携帯電話⇒スマートフォン
 脇役としてPHSやポケベルなんていうのもありましたね。i-modeが登場した時、友だちがいち早く買って、羨ましそうに見ていた記憶があります。

 文章化していくツールは、
手書き⇒ワープロ⇒パソコン⇒スマホ
 ワープロも初期の頃は、誰もブラインドタッチなんかできませんでした。打ちたい文字がキーボードのどこにあるのかを探しながら「かな変換」で一文字ずつ入力していた時代、懐かしいですね。

 文章を表現する手段は、
手紙と電話⇒メール⇒SNS、LINE

 30年~40年の間にこれだけ大きく変化してきました。私自身、この「超高速な進化」になんとかついていったつもりです。

 でも変化してきたのは通信の「機器」「ツール」「手段」だけではありません。同時に「文章そのもの」も大きく変化してきたのです。

 その変化についていけてますか?
 そもそも「文章」の変化に気がついていますか?

 機器の変化についていくのがやっとで、文章の変化についていけない。
 その一方で、デジタルネイティブ世代の人たちは、スマートに「伝わる文章」を使いこなしていますよね。

どんな言葉で発信すればいい?

 文章表現には「話し言葉」と「書き言葉」があることを、国語の時間に習ってきました。習ってきたのはその2つ。その中間については特に習っていません。

 昭和時代はそれでよかった。エッセイストでもなければ、自分の気持ちを文章で表現する必要なんてないのですから。

 でも今は、誰でもエッセイストのように「表現」できるようになってきました。

 せっかく書くならたくさんの人に読んでほしい。
 書き言葉だと堅苦しくて気軽に読めない。
 話し言葉で書いていくと読みづらい。

 だから「書き言葉」と「話し言葉」の間の表現、つまり「ちょうどいい文章」がどんどん進化していったのです

 この「ちょうどいい文章」を使いこなしてみたいですよね。

「ちょうどいい」ラインを見つけよう

1)相手が「読みたい」と思う文章

 どちらの文章を読みたいと思いますか?

 A)契約書の条文
 B)友だちがLINEで送ってきた文

 言うまでもなくBです。

 Aがなぜ読む気にならないのでしょうか?
 それは、一見して「難しそう」「堅苦しそう」な印象があるからです。

 契約書の条文は「読みやすさ」よりも「誤った解釈を与えない」「伝えるべきことをもれなく伝える」が重要です。でも、個人がSNSで発信する文章は、ひと目見て「読みたい」と思ってもらわないと、誰も読者になってくれません

 50代の人たちが子どもの頃、大抵の家族は「新聞」をとっていました。新聞記事が大きな情報源になっていたのです。一方、現在ネットを見る人たちは「新聞」よりも「Yahoo!ニュース」などのネットニュースが情報源

 だから、新聞のように、限られた紙面の中に文字ベースで情報を詰め込んだものに慣れていません。ネットニュースは、こまめに段落分けがされているので読みやすいですよね。

 ネットニュースと同じように、ブログもできるだけ「読みやすさ」を重視する必要があるのです。

<ブログを読みやすくするために意識したいこと>

・段落をこまめに分ける
 ⇒ネットニュースよりも細かく、2~3文で1段落にするのもアリです

・画像を入れる
 ⇒著作権フリーの素材を使用

・難しい言葉はさける
 ⇒読者が分かる言葉を使う

・1文は長くなりすぎないようにする
 ⇒50字を超える文は細かく分ける

・箇条書きを活用する
 ⇒箇条書きで読みやすく、理解しやすくなる

・「ひらがな」で違和感がない場合はできるだけ「ひらがな」を使用する
 ⇒「ひらがな」を使いすぎでは……と思うくらいにする

2)「ですます調」と「だ・である」調

「ですます調」と「だ・である調」のどちらがよい? 

 悩んだ経験ありませんか?

 私は悩みました。

 私の勝手なイメージかも知れませんが、
・「だ・である調」は評論家の書くようなちょっと「おカタイ文章」
・「ですます調」は読者に寄り添っている文章

「だ・である調」の方が読者との距離感があるような気がしますよね。

・読者と同じ立場でいたい
・読者の気持ちの気持ちを考えながら発信していきたい
という気持ちが強いので「ですます調」に決めました。

 どちらで書くか悩んでいる人がいたら、私は「ですます調」をおすすめします。

 ただ、1点注意点があります。

「ですます調」で文章を書くといった場合、ほとんどが「~です」「~ます」で文章が終わっている文章になってしまいませんか? 

 それはまるで「作文」です。

 きのうぼくは、たつやくんとあそびました。こうえんに行きました。サッカーをしました。たのしかったです。

「さすがにそんな文章は書かないよ。子どもじゃあるまいし……」

 そうですか。たしかに内容はちがいますね。でも、語尾はどうですか?
 ~ました。~ました。~ました。~です。……
 あなたも同じ書き方していませんか?

 これは特に「ですます調」の文章でやってしまいがちなことです。
・同じ語尾の2回連続はできるだけ避ける
・同じ語尾の3回連続は絶対に避ける

 これは意識しましょう。

<同じ語尾の連続をさけるために>

・質問をはさむ
(~ではないでしょうか?)
・同意をもとめる
(~ですよね)
・体言止めをはさむ
(名詞で終わる文章)
・箇条書きをはさむ
(箇条書きは敬語じゃなくてもOK)
・会話文をはさむ
(会話やひとり言、ボヤキ、頭の中の描写は敬語じゃなくてもOK)
・~ください、~でした、でしょう……
(文末表現をバリエーション豊かにする)

 私の書く文章は基本「ですます調」。でも、敬語ばかりの文章だと「よそよそしい」印象を与えてしまう。だから、なるべく敬語の連続にならないように意識しています。……という文章も敬語の連続にならないように工夫して書きましたが、このように最後に「です」「ます」で締めると違和感がなくなります

3)間違った文章表現について

「日本語が崩壊している」
なんて嘆いている人もいますが、それは時代の流れで仕方ないこと。

 むしろ、変化を受け入れて溶け込んでいかないと、情報化社会を生き抜いていけないでしょう

 とは言っても、最新の若者言葉を使うということではありません。
「マジ卍」とか絶対に使いこなせる気がしないですしね(最新でもないか……)。

 SNS時代になって、人々の間に「正しい文章を書かなきゃいけない」という意識が薄れてきたのは事実。でも気をつけないといけないのが、間違った文章表現

A:休日は動画を視聴したりして過ごします
B:この店はちょっと敷居が高いなあ
C:このパソコン、まだ全然使えるよ

 これらの文章を読んでどう感じましたか?

 解説していきましょう。

A:「~たり」は並列で使われますので、単独仕様は文法的にはNG
 でも「動画を視聴したり、他のことをしたり」の「他のことをしたり」が省略されたと考えれば、あながち間違いでもないかも知れません。

B:「敷居が高い」は本来以下の意味になります。

不義理や面目のないことがあって、その人の家へ行きにくい。

出典:デジタル大辞泉(小学館)

 ただし令和元年に文化庁が実施した世論調査では「高級すぎたり、上品すぎたりして、入りにくい」の意味に捉えた人の方が多かったのです(56.4%、本来の意味は29.0%)。言葉が変化していることを肯定的に捉えれば、あながち間違いではないかも知れません。

C:「全然」は否定を伴って使われるもの。そう習ってきました。

 (あとに打消しの語や否定的な表現を伴って)まるで。少しも。「―食欲がない」「その話は―知らない」「スポーツは―だめです」
 残りなく。すっかり。
「結婚の問題は―僕に任せるという愛子の言葉を」<志賀・暗夜行路>
 (俗な言い方)非常に。とても。「―愉快だ」

出典:デジタル大辞泉(小学館)

 このように、辞書では否定を伴わない用法も掲載されています。実は「全然使える」は間違いではないのです。

 以上のように、A・B・Cの文章、それぞれ間違いではないとも捉えられます。ただ、これらの文章を読んで違和感をもつ人もいる(ちなみに「違和感を感じる」というのも誤りではないけど「違和感をもつ」人が多い表現です)。

 たとえ誤解であっても、読者に「日本語を知らない人」を思われないように、表現には気をつけていきたいですね。

 この記事、書いているうちにどんどん「伝えたいこと」がでてきて長くなりました。まだまだ伝えたりないので、近日中に第2弾をリリースしていきます。

 お楽しみに!